2024/06/08
何のために働くのか?について、考察してみる。
独立してから、特にその思いが強くなったのだが、結論から言うと「社会と繋がっている実感を得るため」が大きい。
自分なりの知恵と工夫と努力で、組織を通じて利用者に喜んでもらうこと、それ自体で気持ちが満たされる。
「勉強カフェのおかげで合格できました」「素敵な出会いがありました」「決意のきっかけを与えてくれた時間でした」
など、勉強の成果を中心に、たくさんの「ああ、貢献できて良かったな」というシンプルな人間の根底に備わっている喜びを私自身も感じることができる。
そして、ここで働く人にとっても嬉しいことであり、現場の成果がそれを作り上げている。
サービスを利用してくれる人との繋がりがあり、社内との繋がりがある。それは何にもかえられない関係だ。
当然に、商売をやっていれば誰だってそうがが、苦しいことも多々あるのは普通のこと。
生活のために働く。その意味合いも誰にだってあると思うが、それ以上に「働く場所がある=居場所がある」こと。それ自体が人間に社会と繋がっている実感を与えてくれる。
「FIRE」の言葉で早期リタイアを目指す風潮も見受けられ、気持ちもわかるが、仮に自分がその状態になったとしても、いずれ飽きて、また何かしらのサービスを提供したくなることが安易に想定される。
理由は、真剣勝負じゃない遊びは、つまらないからだ。趣味の中に楽しさを求めても、それは基本的に、自分の中で完結している世界だ。誰かを救う結果にはならない。
お金をもらってサービスを提供すると言う循環は、凄まじい真剣勝負だが、買ってくれた誰かがいる。それは、その場所を必要としてくれたから買ってくれたんだ。
双方が豊かになっていく、その世界を望んでいるのは結局自分なので、自己満であることには変わりないのであるが、究極の自己満が商品提供という行為だと思う。
しかし、商売の綺麗な側面を書いただけでは治らないほど、裏側にはやるせ無い日々もあり、傷つくし、うまくいかなくて悩んだり焦ったり、泥臭く地味なものだ。
それは、生馬の目をぬくほどに神経を尖らせた日々だ。
でも、だからこそ成果が出たり喜んでもらえた時の、嬉しさは大きい。ここに関わるスタッフが、何かを乗り越え成長できた実感を得られることも嬉しい。組織で成果を出すことの喜びも感じる。
そして、逃げなければ、必ず成長する。
スピリチュアル的な話になるが、自分がここにいるのは何かしらの使命を負っているからだ。
使命を終えた時、天に帰るか、まだ生命が続くなら、違う場所に導かれるだろう。
置かれた場所で咲きなさいという言葉があった。
人事を尽くし、天命を待つという言葉は、言い換えれば、
あとは天命を待つだけだ、と言い切れるほどに全てのことをやり尽くしたかどうか、問われていると言うこと。
まだまだ、できることはあるし、その中で小さな喜びがたくさんある。
ブルーハーツが歌っていた「なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ なるべくいっぱい集めよう そんな気持ちわかるでしょう」(情熱の薔薇より)
そう言う瞬間が、働くことの中にもある。
無感情でいるよりも、日々小さい辛いことを乗り越えて、その先の小さい喜びにたどり着く。
この繰り返して、何となくトータルでは幸せだって言えるんじゃないか。
だから、一生懸命に働くことがその解になり得るんじゃないか。
テクノロジーによって、あらゆることのコストが下がった「限界費用ゼロ社会」を歩む上で、「働くこと」が満たす人間的な社会性の発展は、思っている以上に大きいのではないか。
18歳で初めてアルバイトをして、働くということを覚えてからその倍の18年が経って、考え方が変わってきました。そして、これからも変わるのでしょう。