2025/02/15

みなさま
あけましておめでとうございます。
毎年の抱負を毎年ブログに書いているので、今回もここに記します。
2019年のテーマは
「決めたこときっちりやる」にしました。
これは、非常にシンプルですが、深い意味があります。
今までの自分は、決めて、完璧にやり切れたかというとそうではなかった。
しかし、今年は変える。
細部にまで、丁寧に、そのままスケジュール通りに行う、ということにします。
今までの自分は当日の急な対応、トラブルや予期せぬ予定、体調や気分などという変数に振り回されることが多く、それは弱さでした。
2018年の10月から酒をやめて、わかったことがあります。
それは、自分をコントロールしている感覚は快感であり楽しいということ。
今までは、決まりきった日常にどこか反抗し、わからない将来を楽しむ癖がありました。
明日の風は明日の風が吹く、と。
しかし、2019年の荒井はもうそれをやめて、可能な限り計画を練り、その通りに行動していきます。
明日の予定を決めたら、その予定通りに行う。
これの良さに気づくのに時間がかかりましたが、いいポイントが一つあります。
それは、精神衛生面です。
今までのやり方として、その日の限界までやる、ということを行なっていました。
ただ、ひたすらに、がむしゃらに。
私の場合は、「これをやってください」と依頼されることがありません。
ただし、仕事自体は大量にあります。終わることはありません。
なぜなら、「誰もが最高の店舗だ」と言える状態にできたのか?
「もっと世の中に貢献できるサービスは?」という問いは永久的に続きます。
つまり、やれることは常にあり、ないのであればやれることを生み出す・考えるというやることがある。
世の中という上司の顔色を読み取り、どれが「世の中さん」のお気に召すかを想像しながら感覚を確かめて
タスクを自分に課していきます。
だから、ひたすら突き詰めてやるというスタイルで来たのですが、
今回、計画を立てて、ここまでやったら一区切り、と決めることでメリハリがつけられるようになりました。
以前のその状態は、「終わった」という感覚が永遠に得られないことを意味していました。
しかし、「これをやる」と点を設けることにより、「これをやれた」という区切りが生まれた。
勉強と同じですね。
普段から、がむしゃらに勉強をやらずに、計画し、休憩と集中を使い分ける、ということを勉強する人に伝えておきながら
自分ができていなかったという。
これを発見するのに奏功したのは、年末年始に集中して行なった「自己分析」でした。
色々な勉強科目がありますが、誰もが満点を取れない最たるものは「自分」という科目じゃないかと。
永遠の試験であり、勉強です。
社会人になってから、10回目の正月でありましたが、いままではあまり会えなかった友人などとテンションを上げてわーわー飲むとか、仕事をするとかばかりして、ゆっくり過ごすのはせいぜいあっても1日程度でした。
それを今回、この
10年にして初めて3日間ほど外界との接触を原則シャットアウトし、篭ってひたすら見つめ直しました。
忘れていた、または気づいていなかった自分がそこにいました。
ちょうど、「メモの魔力」という本が発売され、1000個の自己分析用の質問が付録でついているのですが、
一つづつ真面目に答えていきました。
特に幼少期から思春期までのあたりを振り返る機会が今までほとんどなかったので、そこからの発見が大きかったです。
あの頃、何よりも快感だったのが、ゲームのキャラが育って行くこと。そして、可視化されたデータ分析だったということを思い出しました。
ドラクエ、FF、ポケモンなどのRPGの技の威力やキャラの特性などがデータ化されたものを読んでは興奮していた。
ポケモンで言えば、「なみのり」の威力は95として命中率は限りなく100%。「10万ボルト」も同じ威力は95で、命中率はこちらは正真正銘の100%。「かみなり」は威力が120に上がるが命中率が70%に下がる、など、今でもなんの役にも立たないのに覚えていたりします。
プロ野球にもハマったのですが、それらも全てデータからでした。
1998年に一番ハマったのですが、年ごとの成績が掲載されている表への興奮具合が半端なかったです。
心がフルボッキして、
エロ本をみるかのように興奮しながら選手の成績表を毎日ガン見していました。
今でさえ、この前もイチロー選手や落合博満の過去の成績をなぜか無心で読み込んでしまいました。
イチローであれば日本時代に打率で3割4分を切っていないのがすごすぎるな、とか。落合であればロッテオリオンズから移籍後はそこまでの成績ではないんだな、とか。
打率の浮き沈みやホームラン数、得点圏打率なども見てるだけで面白い。
原点を振り返れば、ただの冒険好きのデータマニアなんだろうと。
小学校2年まで、本気で誰かと誰かが一緒にブランコなどで遊んでいる光景が、「一人で寂しい」、ではなく「不思議」だった。
私にとって、それは先天的なものでした。
そして、憧れた。「コミュニティ」に。自分にないものであり、華やかな世界。これが、憧れ。
だから勉強カフェというものに惹かれたのかもしれません。
憧れが続いて、職業もコミュニケーションをし続けることを選択し、社会人になり10年が経った。
営業、接客とずっとコミュニケーションすることばっかりをやってきましたし、それが楽しいと思っていた。
一方で、今でもデータやシステムに安心感を覚える自分がいる。
自分の違和感のない場所はここだな、と思うわけです。たらればはありませんが、「憧れ」を抱くことなく育っていればおそらく一切コミュニケーションを取らなくていいような、画面と向き合う仕事をしていたと思います。
三つ子の魂100まで、と言いますが私が小学校時代、ほとんどの時間をテレビゲームの前で張り付いてたあの頃の落ち着きと興奮は今でも存在し続けている。
中学校で友達と遊ぶことの楽しさや、テニスというスポーツの楽しさを知り、
高校ではその友達と深く遊ぶ楽しさ、テニスをさらに追求するような深めることを知り、
大学で留学することで、社交の扉が一気に開きました。
こんなにも世界は開かれていたんだ、と衝撃を覚え、そこから私の社交への憧れが始まりました。
10年間、ずっーと憧れていました。そして今でもそれは続いています。
しかし、そんな社交の開かれた世界へ身をおきつつも、本来備わっているむしろ嫌っていたことさえもあるそのオタク気質の自分に意識して回帰し、突き詰めてしまう特性を捉え直し大事にしようと決めました。
2019のテーマは「決めたことをやる」そして、「自分の特性を活かす」にしていきます。